ブログ文章術「一文を短くって言うけどさ3」を読んで

昨日の記事の予告通り、米光さんのブログ文章術が更新されている。
→「一文を短くって言うけどさ3」http://blog.excite.co.jp/blog-jutsu/1720617/
ぶっちゃけ、予想の範囲内の展開ではある。
でも、大事な指摘もたくさんある。気になった箇所を引用。

『女生徒』を読むと、語り手の気持ちや情意を伝える文章であることがわかる。これは「料理レシピ」を伝えるための文章ではない。
「ひとつひとつに、それぞれに、気まぐれに、いろとりどりに、美しく配合されている(しかし、それはデタラメで空疎にも見える)」のは、料理ではなく、語り手の女生徒そのものじゃないか。語り方そのものじゃないか。『女生徒』という短編を読むと、そう感じられる。
課題文は、「料理レシピ」としては、分かりにくく、だらだらと長く、あちこちに意味が飛び、不要なことを云っている。だけど、太宰治の『女生徒』は、気まぐれで、独善的で、飛躍した発想で、思い込みが激しいけど、突然まったく違うことを考え、気持ちの振幅が激しい女生徒に萌えるテキストなのだ。

そうかー。「萌え」ね。
米光さんは、かつてエキサイトブックス「萌え発想術」という連載をしていた。僕は全てを読んだわけではないけれど、なかなか面白かった記憶がある。
そのとき、米光さんは「萌え」という言葉の定義をしていて、その定義とは「何かに対して、不十分な情報を補って、好きになるという美意識」というものだった(もちろんこれは広義の「萌え」の定義)。
僕は、これによって、それまで今一つ分からなかった「萌え」というものについて、腑に落ちたのだった。この定義であれば、安部公房の『箱男』を読んで、それについていろいろ思いをめぐらせ、ついには卒業論文まで書いてしまった僕などは、完全に「箱男萌え」だったわけだ。さらに言うと、音楽を聴いて過剰に思い入れをしたり、映画を見て号泣したりしている自分というのは、まるっきり「萌え」の境地にいるんだなぁ、ということになる。
もちろん、こういう感情の動きを「萌え」と呼ぶかどうかはその人次第だろう。
その意味では、僕は太宰の『女生徒』には萌えなかった。もうちょっと客観的な視点からは、かなり面白いとは感じたのだが。


話がずれた。(^_^;
僕が思うに、米光さんが言いたいのは、読者を(広義の意味で)「萌え」させることのできる文章/ブログが「面白い文章/ブログ」である、ということなのではないだろうか。
今回の記事の中の例でいうと、映画を見て興奮している友人の支離滅裂な台詞は、それだけを取り出してみると意味不明な単語の羅列に過ぎない。しかし、文脈から、読み手が想像力を働かして不十分な情報を補うことによって、「あぁ、すごく面白い映画を見たのだな」と受け取り、さらには「そんなに面白い映画なら、俺も見てみようかな」とか「見たい!」思う(かもしれない)のである。それがまさに「(広義の)萌え」ということになる。



さて、米光さんは、

気持ちや情意を伝える文章では「センテンスを短くしろ」などという単純な技巧は、通用しない。

とも書いている。
つまり、「伝えたいこと」が「気持ちや情意」であるならば、「一文を短くする」という“文章術”にとらわれる必要はない、ということなんだろう。
「伝えたいこと」が別のこと(たとえば「論理的思考の過程」とか)ならば、「一文を短くする」ということに留意した方がいい場合も勿論ある。米光さんは、はっきりとはそういうふうに書かないけれども。


ところで、「気持ちや情意」を伝えることを目的としない文章に「萌え」ることは出来るのだろうか?
結論から言うと「できる」。僕は、id:michiakiさんや、id:ululunさんの文章が好きなのだが、彼らの書く文章は必ずしも「気持ちや情意」を伝えることを目的とはしていない(ように思う)。けれども、僕が彼らの文章を読んで抱く感情は、広義の「萌え」としか表現しづらいものがある。(それがなぜなのかは、また別の話。)


僕としては、自分も読者を「萌え」させる文章をいつか書きたいとは思うが、なかなか道のりは険しいなぁ。