「責任がある」ということは、もちろん、「罪の意識に浸っていればいい」ということではありません。

4月23日付けの記事にJosefさんからコメントをいただきました。ここでは、それに対するレスを書きます。

はじめまして。他所で勝手に書いたコメントに答えていただいてどうもです。
自衛隊自衛官の区別に重点があったのですか?というのも、23mmさんは殺人犯の子を「人殺しの子」と蔑んではいけない、と書いてらしたので、私は「事実」と「倫理」が都合良く使い分けられていると感じ、そこを重視してコメントしたのです。

だから、蔑まずに「人殺しの子」と呼ぶのはいいのかどうか聞きたいところですが、まあそれはもういいとして、自衛「隊」が人殺しの練習をしているのは一面の事実であり、それゆえ個々の自衛「官」が人殺しの練習をしているのも一面の事実です。「人殺し」に焦点があるなら組織と個人をわざわざ分けなくてもいいでしょう。そして「日本国民である僕としては、責任の一端は自分にあると感じざるをえない」とお書きになっているのは実に真っ当な国民意識だと思います。

蔑まずに「人殺しの子」と言える文脈が存在するのならば、そう呼んでもいい、となりそうなものですが、実際は難しいでしょうね。と、考える僕には、既に政治的判断があります。(それを、事実と倫理を都合よく使い分けていると思われたのでしょうね。確かに、そういう面はあります。)
それは「人殺し」という言葉が行為をさす場合(「人殺しをする」)と、個人にレッテルを貼る場合(「あいつは人殺しだ」)があるからです。と、さっき気付きました。「人殺しの子」は、後者の意味でしか使われないんじゃないでしょうか。
だから、自衛官自衛隊を区別するのには意味があります。個人にレッテルを貼りたいのではなくて、組織(国家機関)としての行為の責任の所在を考えたいからです。

ここで一つ保留しておきたいことがあります。それは「責任」という翻訳語に関わることです。往々にしてこの語は「責め」とか「咎」というニュアンスを含む「原因」の意味で使われますね。「失敗したのは僕の責任だ」はしばしば「僕のせいだ=僕が悪いのだ」と同義で使われる。これは「応答能力」を原義とするresponsibility等とは異なる用法です。「責任の一端は自分にある」がこの意味で言われているなら、それは違うと申し上げたいと思います。

「責任の一端は自分にある」は、日本国民である以上、間接的にではあれ自衛隊の運営に参与する権限を持っている、言い換えると自分は主体的に自衛隊活動に関与している、ということであるべきでしょう。これは、自衛隊が不祥事を起こした時「自分にも責任(罪)があるんだー(泣)」みたいに自分を責める受動的態度のことではありません。ましてや他人にまで罪意識を喚起してまわる卑しい態度のことではありません。不祥事の原因を追及し、同じことが起こらないよう対策を考え…というふうに主体的に対象と関わっていくこと、これが「自分に責任(応答能力)がある」ということです。

ですから、自衛隊が人殺しの練習をしている、その責任の一端は自分にある、という時、問われるのは「それに対してあなたはどのように関わっていくのか」ということです。「自衛隊廃止して非武装中立」から「軍隊に格上げしてもっと殺傷能力を上げるべく核武装」…まで立場はいろいろありうるでしょう。どういう立場で関わっていくかはその人次第ですが、少なくとも「自分の責任(=せい)だ」と罪意識に浸っているだけの態度は真の意味で「無責任」と言うべきでしょう。以上、もしも的外れであったならごめんなさい。

いえいえ、的外れとは思いません。「責任の一端は自分にある」と書いた以上、その責任に対してどのように主体的に関わるか、ということが問われるのは当然です。必然的に、話はそのように繋がっていくだろう、と考えていました。
「『自分の責任(=せい)だ』と罪意識に浸っているだけ」では、何の意味もありませんし、僕自身がそのように罪意識に浸っている思われると困るな、とも思っていました。
それに、必ずしも「責任がある」=「罪がある」でもないですからね。≠か≒でしか結ばれないことも多いですし。


ただ、具体的にどうするかは、Josefさんのおっしゃる通り様々な立場がありますので、一概にこうだとは言えないことではあります。
僕個人の立場としては、いろいろ揺れ動いているところもあるのですが、少なくとも、今後自衛隊が担わされていく役割がどのように変化していくのかを注視し、また、現実の自衛隊の行動が妥当なものなのかどうか見極めていくことは必要なことだと思いますし、それはその気になれば誰にでもできることです。それぞれの立場に関係なく。
その結果、実際に何かの行動を起こすかどうかは、その都度考えるべきことでしょう。
とりあえず、答えになっているかどうかわかりませんが、このくらいが現時点で精一杯です。

keya1984さんのトラックバックへのレス。

だいぶ遅くなりましたが、僕の記事にいただいたトラックバック記事へのレスをします。
元記事→『はたして俺は人殺しなのか、という話。』
トラックバック記事→『Backlash to 1984 -「君もそうだと僕は言うけど君はとやかく言うな」』
できれば、これらのリンク先をお読みいただいたうえで、この記事をお読み下さい。
自分の文章が「自己満足」であることを、論理的に説明される機会はそうそうないので、貴重な体験をさせてもらいました。これは皮肉でも何でもなくそう思います。keya1984さん、どうもありがとうございます。
しかし、僕の意図通りには読まれていない部分もあって、それは僕の文章がまずいせいなのですが、僕の(上記のリンク先の)記事の後半について、リライトするぐらいの気持ちで以下に書きます。



全称命題と言う言葉は初めて知りましたが、Wikipediaの解説とkeya1984さんの記事を読んで、大体の意味は分かったと思います。たしかに、「人間はみんな、少なくとも間接的には、人殺しだ」というのは全称命題になりますね。
で、僕は、それは「間違っているとは言えない」と書きましたが、どうして間違いとは言えないのか、この僕の記事の中ではきちんと書いていませんね。この命題について書いたのは、他には、「使うのが適当でない文脈はある」ということと、「これってひょっとして『原罪』のことではないの?」ということ、あと「現実のある側面として『人間はみんな、少なくとも間接的には、人殺しだ』と評するのは、まぁ、受け入れられるかな、僕は。」ということだけです。
僕としては、この命題には文脈によっては適当でない、つまり、前提条件によっては成り立たない場合もあると考えています。前提条件がクリアになっていなければ成立しないだろう、ということです。また、「原罪」というのは特定の宗教観に根差した言葉なので、その宗教観を共有していない人にとっては、その命題を真とするするには足りません。「現実のある側面として」というのは、その言葉の通り、別の側面から見たら成立しない命題である、ということです。その「ある側面」についても、「僕は受け入れられる」としているだけで、受け入れられない人もいることを意識していますし、それが正しいか誤りかの判断はしていません。
つまり、僕は、「人間はみんな、少なくとも間接的には、人殺しだ」という命題について、無条件で成立するとは考えていません。また、「間違っているとは言えない」とは書きましたが、「正しい」という根拠も示していません。無条件で成立すると考えている人が居るかどうかは知りませんが。


ところが、僕は次のようにも書いています。↓

誰かが僕に、「おまえは人殺しか?」と問うてきたとしたら、僕はなんと答えるだろうか。
「違うよ」と答えるとき、僕の中にあるのは個人の体験の記憶だけでしょう。過去にそういうことをしたことがない自分の境遇をラッキーだったな、と思っているかもしれません。
「そうだよ」と答えるとき、僕は明らかに、社会とか世界の枠組みを意識しています。戦争も飢餓もテロも犯罪も死刑制度も、個人の思いはどうあれ、結果的に容認している社会の構成員である自分というものを意識しています。
両者はどちらも正しい、と僕は考えます。
そういう自分を恥じるかどうかは、個人がそれぞれ自らに問うべきことであって、他人がとやかく言うことではありません。というか、とやかく言うあなたはどうなんだ、という話。

これは、「人間はみんな、少なくとも間接的には、人殺しだ」ということとは、別の問題を論じてしまっています。ここで僕が言っているのは、「僕自身は人殺しなのだろうか」ということであって、それ以上のものではありません。
この辺は、僕が全称命題というものを意識していなかったせいもあって、異なる次元の話をごっちゃにして論じてしまっているわけです。僕は、この問題は個人の意識が問われている、と勝手に思い込んでいたんですね。だから、これは「人間はみんな、少なくとも間接的には、人殺しだ」ということの説明には、全然なっていないんですよ。
で、個人の意識が問われた問題(「僕自身は人殺しなのだろうか」)であるとしたならば、「違う」と言うときの自分の意識と、「そうだ」と言うときの自分の意識のあり方が違う、と僕は言っているだけなんですよね。だから、これは僕にとっては個人の内面の問題であって、「他人がとやかく言うことではありません」ということになるわけです。
しかし、結局、そういう全称命題と個人的な問題を混同して論じてしまっているので、意図したものではないにせよ、詭弁的というか詐術的な言説になってしまっているのは否定できません。そこのところは、僕自身反省しているところです。


ところで、「人間はみんな、少なくとも間接的には、人殺しだ」という命題が成立する条件って、一体なんだろうか、ということになった場合、僕の上記の考えによれば、全ての人が「戦争も飢餓もテロも犯罪も死刑制度も(これらはその人の立場によって省略されうる項目もあるかもしれません)、個人の思いはどうあれ、結果的に容認している社会の構成員である自分というものを意識した」とき、ということになろうかと考えます。
論理的にはそれでいいようにも思えますが、現実的にこの条件が成立するのは困難でしょうから、そのような考え方には意味がない、とする立場もありえるでしょう。また、この考え方自体「生物は生きている以上、必ず他の生物の命を奪っている」ということと変わらない、そんなことをわざわざ言うこと自体ナンセンスだ、と言う人がいるのも分かります。ただし、意味がある・ナンセンスだと思わない、という立場もある、というだけのことです。
もちろん、この考え方自体が間違っている、という立場もあるでしょうから、それについては反論していただければと思います。
「人殺し」という言葉に過剰な断罪の響きを感じ取るならば、僕としては、違う言い方を採用してもいいと考えます。



さて、問題の「募金をしなかったら、間接的に人を殺していることになるのか」という命題についてですが、これは、「人間はみんな、少なくとも間接的には、人殺しだ」という命題とは全く別の命題ですよね。全称命題であることには違いありませんが。
これについて、僕はこう書きました。↓

だったら、答えは簡単。僕の答えはYESだ。

しかし、同時に次のようにも書いていますよね。↓

でも、これを問うときにはこういうことも考えないといけないよね。つまり「募金をしたら、間接的に人を殺していることにならないのか(あるいは、その罪を軽減することはできるのか)」ということ。僕の答えはNOだ。

??「募金をしてもしなくても、人を殺していることになる」??
これは、僕が省略してしまったことなのですが、上記の僕の答えがどちらも正しいとするなら(僕はそう考えているわけですが)、「募金をしなかったら/したら」と問うこと自体無意味なんじゃないの、ということになるんですよね。
keya1984さんの記事のコメント欄でJosefさんが仰っているとおり、

募金してもしなくても間接的な人殺しであるならば、「募金しなければ間接的に人殺ししたことになる」という命題は「募金しなければ」という仮定部分がまったく無意味ですね。単に「みんな間接的な人殺しだ」と言えばいいだけです。

ということなんですよ。*1
だからですね、どっちかと言うと、僕は「募金しなければ関節的な殺人」という説には反対なんですよ。というか、無意味なんじゃないの、と思っているんです。*2でも、そこのところはどうも僕の意図とは逆に受け取られてしまっているようで、あー、多くの人がそのように解釈されたようですから、それはやっぱり、僕の文章がまずい、ということなんでしょうね…。
これはね、正直、かなり凹みました…。
それで、あの記事の最後の文章なのですが、「そして、僕のこの答えを、あなたは受け入れてもいいし、受け入れなくてもいい。そういうこと。」というのは、この問題については、とりあえず、僕としてはほとんど無意味だと思うけれど、そう考えない人もいるだろうから、まぁ、それは人それぞれ考えればいいのではないかなぁ、ということぐらいの意味です。僕はこの答えが正しいと押し付けはしません、ということ。
で、もちろん、僕の記事に対して「とやかく言うな」とか、そういうことは思ってませんから。
まぁ、自己満足と言われても、これは仕方ないですね、どうも。



あとですね、keya1984さんからは、別の記事からもトラックバックをいただいたのですが。こちら→『原則禁止と絶対禁忌(殺人篇)』
えーと、そういうわけですから、僕は「『募金をしなかったら間接的な殺人だ』というのが『事実』」という意見ではありません。「大風吹けば桶屋が儲かる」くらいの遠回しな因果関係はあるかも、とは思ってましたが、少なくとも、責任を追及されるべき話であるとは思えません。
で、僕自身は、「絶対禁忌」という感覚も持ちながらも、「原則禁止」を容認している、というような立場であると言えるのかなぁ。これは、違うかもしれませんが。でも、原則禁止の例外規定をどのように設けるのか・どの範囲まで認めるのか、ということについては敏感でありたいとは思っています。
また、例外規定の中でも、個人に認められる正当防衛などの行為と、「武官」が行う殺傷行為は明確に分ける必要がある、と考えます。「武官」が行うのは、「国家」が行うのと同義です。この場合、責任は武官個人ではなく、命じた国家にありますから、その国家の命令が正しい判断であったかどうかが問われることになるからです。そして、国家にどの程度の権限を例外規定として与えるのかが、国民に問われるわけです。



(付記:この記事は2007/4/24の日付を使いましたが、2007/4/23に書きました。)

*1:ただ、これがニヒリズムかどうかはよく分かりません。僕がどうやっても「間接的に人殺ししたことになる」と言っているのは、募金云々のことが仮に正しかったとしても、社会の別の位相から見れば、また別の因果関係において人を殺していることになるんじゃないの、と考えたからです。「関節的な殺人」という論理を持ち出した時点で、そういう結論になるのは明らかなので。

*2:keya1984さんの『政治ヲタクの不募金殺人説が欺瞞である理由』も読みましたが、僕は、そこでの「募金することは責務ではないので不作為の責は問われない」という主張にも、反対ではありません。最初からあんまり意味ないよなと思っていたことが、逆にクリアになったくらいです。もちろん、それとは別に、募金の意義はそれはそれであるのだから、無意味だからやめろ、なんて言いませんよ。「募金しなければ関節的な殺人」という言説が無意味である、って言ってるだけですから。あと、介護の問題などは、結局、個々のケースを個別に論じなければいけないことで、あんまり一括りにしては欲しくない話だよな、と思っています。というか、元々そういうことが発端になっていたということも、言及された記事を書いた後に気付いたんで、もうどうしようもないですね。>自分