aozora21さんのコメントへのレス

なかなか、素早い対応ができないような状況です…。どうにもならんな、気ばかり焦って。
遅くなりましたが、前回の『はたして俺は人殺しなのか、という話。』という記事に頂いた、aozora21さんのコメントへレスです。なので、この記事は、リンク先の記事とコメント欄に目を通して頂いた上で、お読みください。


うーん、詭弁ですか。僕にはそういう意図はなかったのですが、結果としてそういう風に解釈できるかもしれないですね。
で、某知事の意図はわかりませんので、余計な推測はやめて、以下は僕の考えだけを書きます。あと、前回の記事では書き切れていないところを補いたい、という意図もあります。

人殺しの練習と人殺しは違うから人殺しの練習は適用できるというのは詭弁です。人殺しのために練習する(と言い換えている)んですから。

自衛官がするのは「許可された殺傷行為」で、人殺しではないのです。人を殺す人にはその人にとって正当な理由があります。殺人そのものが目的であったとしても、殺人によって得るもの(快楽とか)が目的で殺人そのものは目的化しません。人殺しは個人的な出来事なのです。軍人や自衛官が敵を殺傷するのは個人の目的ではありません。だからことばを区別しているのです。

おっしゃりたいことは理解しました。理解したと思います。

戦地で敵に銃口を向けるとき、個人の意思があるとお思いですか?国のためとか、あるいは防御、正当性がある大義名分があるはずです。自衛官が人殺しの練習をしていると想定することは、その大義名分を認めないということにはなりませんか?人殺しという主体的な個人の意思である行為に言い換えてしまっては。

戦地で個人の意思があるかということについては、無いだろうとしか言えません。その意味では、自衛官にあたかも(刑法上の)罪があるかのような表現は避けるべきだ、ということなら納得できます。だから、前回の記事で書いたこと自体撤回してもいい、と思いかけています。
しかし、納得していると言いながら、「でもさぁ」と思っている自分もいるんですよ。


で、大義名分についてですが、これが一番重要な問題ですね。僕にとっては。
「許可された殺傷行為」というものが「人殺し」とは違うということになるのは、大義名分があるからなのでしょうか。
テロだって、やる側には大義名分があります。しかし、テロが犯罪行為(=人殺し)であるのは明白です。
「人殺し」と「許可された殺傷行為」とを分けるのは、「国家による」大義名分の有無なのではないですか。
殺人というのは、個人が主体的な意思を持って、別の個人の命を奪うことですね。確かに、その点はaozora21さんの言われる通りだと思います。
では、「殺される」という語感はどうでしょうか。これは、「個人が、何者かに恣意的に命を奪われる」ということですよね。この場合、「何者か」が個人であるかどうかはあまり関係なく使われているように思います。殺される側にとっては、個人の立場にある者にであろうが、「国家により許可された」者にであろうが、殺されることには変わりがありません。
この「殺される」という言葉を反転させて、「人殺し」と言うことはありうるのではないでしょうか。それもまた、詭弁であるとか詐術であるとか欺瞞であると言われれば、そうかもしれません。しかし、それはもう僕としては、考え方が違うとしか言えないことです。
でも、前回は、「自衛隊が人殺しの練習をしているのは、単に事実である」という趣旨のことを書きましたが、それについて今は、「僕は、自衛隊が人殺しの練習をしていると考えている」と書くべきだったかと感じて、少し反省しています。


つまり、「僕は、自衛隊は国家による人殺しの練習をしていると考えている。国家による人殺しとは、国家が許可を与えた殺傷行為である。そして、その責任は国家にあり、個々の自衛官が負わせられるものではない。しかし、国家にそうした権限を与えた当事者としての日本国民の立場を意識するとき、日本国民である僕としては、責任の一端は自分にあると感じざるをえない。」ということです。


あと、話はずれるかもしれないのですが、大義名分というのは怖いものだと思いますよ。それがあれば、人はどこまでも暴走できてしまいますから。それが僕にとって、一番危惧しなければならないと感じられることです。
大義名分を認めない、とは言いにくいのですが、大義名分を楯に人命が失われることを承認させようという考え方は、僕は好みません。それは、(話は飛躍しますが)例えば、イラクアフガニスタンで、米軍の空爆により非戦闘員も含めた多くの命が奪われたことや、かつて、天安門広場で中国の人民解放軍が学生たちの命を奪ったことなどを、目的遂行の為には仕方なかったということにしかねないと思えるからです。
日本の自衛隊がそれらと同じだとは思ってはいませんが、大義名分というのは基本的に怪しいものだ、とは思います。
また、世界中の軍隊が無くならなければ、その大義名分は温存されるというのはその通りでしょう。その通りだけど、ならば、その大義名分をなるべく発動させないように、考えたり発言したり行動したりすることはできるんじゃないでしょうか。


うーん、これでもまだ書き切れていない気がしますが、とりあえず、今はここまでにしておきます。
前回の記事にもらったトラックバックへの反応は、もう少し先になりそうですが、必ず書きます。

keya1984さんの記事に反応する前に、ちょっとだけ書いておきます。

僕の『はたして俺は人殺しなのか、という話。』の記事へのトラックバック記事への反応を書きたいのですが、その前にちょこっとだけ、自衛隊関連のことを補足しておきます。
その記事の中の注に、僕はこのように書きました。

自衛官の子を「人殺しの子」と呼んで蔑むのはもちろんいけない。同時に、殺人犯の子を「人殺しの子」と呼んで蔑むのもいけないと思う。そんなの断るまでもないことでしょうが。たとえ、僕が自衛隊なんかなくしちゃえばいいとか、殺人犯は全部さっさと死刑にしちゃえばいいという意見の持ち主だったとしてもですよ。

それに対して、keya1984さんからのトラックバックの記事のコメント欄ででJosefさんが、このようなことを書かれました。↓

読まずに言うのもナンなので23mmさんの文章を読んでみました。自衛隊が部分的にではあれ人を殺す訓練をしているというのは即物的には正しいですね。23mmさんはそのことを非難等の含みなく、単に事実として言っているとのこと。そこで不思議なのは、注釈の中で、自衛隊の子を「人殺しの子」と蔑んではいけない、殺人犯の子を「人殺しの子」と蔑むのもいけない、と書いていることです。なぜかここは「蔑む」という「価値評価」で語られている。しかし23mmさんが「単に事実として」ものを言おうとしているのであれば、殺人犯の子は単に事実として「人殺しの子」と言えばいいはず。なせここには「蔑む」という価値評価をくっつけて「いけない」と禁止するのか。
 以下は推測です。ここには、「自衛隊は人殺しの訓練をしている」と言っても許されるが、自衛隊員の子を「人殺しの訓練をしている親の子」と呼べば皆から非難されるという政治的判断(あっさりいえば損得勘定)があるのだろうと思います。つまりアニキの「他者の存在の欠落」という指摘とは別のレベルで23mmさんは他者の目を気にしまくっている、ということです。言い換えると、「自衛隊は人殺しの訓練をしている」とあっさり言明できるのはそれが単なる事実だからではなく政治的に許容されているから、つまりそれ自体が政治的言明なのです。
 以下、上の推測に関連しての私の意見ですが、今件のような事柄についての言明が政治的であるのはほとんど必然のことであって、単なる事実として語りうると考えるのは幻想か欺瞞か、いずれにしても誤りだと思います。幻想の中にいる人は自分の発言がどれほど政治的であるかにもっと自覚的になるべきだと思うし、欺瞞の中にいる人はもっと正直になるべきでしょう。

また、aozora21さんの記事でもこのように言及されました。↓

23mmさんは人を殺しているのに人殺しと呼ばないことに不思議を感じているのかな?と思う。でも、これを人殺しと呼んでしまうことの方が見据えるべき問題から離れるような気がするのだ。なぜなら、脚注で書いているように現実に自衛官の子どもを人殺しの練習をしている人の子どもと呼べないから。いや呼んでもいいけど、呼んじゃいけないのは人殺しが罪だから犯罪者予備軍の子と読んでいるに等しくなるからでしょ。ということは、自衛官は罪があるということになる。いや自衛官が罪の意識を感じているかどうかはともかく、23mmさんは自衛官に罪を感じている。だから子どもを人殺しの練習をしている子どもと呼んではいけないと言う。でも自衛官は勝手に選出されたんじゃなくて自発的になるものなんだよね…。*1


 としたら、自衛官の子どもをそう呼べないような理由のある「人殺しの練習をしている人の子ども」と呼べないのに、自衛官が人殺しの練習をしていると言えるというのは矛盾していると思う。まあ人間は矛盾を抱えて生きるものか…。


で、これらに対しても答えておくべきかと思いました。まず、aozora21さんの記事のコメント欄に書いた僕のコメントを引用します。↓

えーと、新しい記事(注:↓の記事)を投稿したあとに、こちらの記事に気が付きました。
そちらの記事を読んでもらえれば、aozora21さんの疑問も解けるのかと思うのですが、僕は、最初から個々の自衛官を「人殺し」だと言いたいわけではないんですね。
自衛官が演習をするのはそれが仕事だからなので、当然だと思います。その職業を選んだことにも、非難や批判をする気はないです。というか、個々の自衛官を責めることはしてはいけないと考えます。自衛官の子を「人殺しの子」と呼んではいけない、というのもその延長にある考えです。
だから、僕は「自衛官」が人殺しの練習をしているとは、言ってないですよね。「自衛隊」というのは国家機関の名称ですから、個人としての自衛官とは区別しないといけないはずです。責任を負うのは組織としての「自衛隊」、つまり、国家です。一人ひとりの自衛官ではありません。
でも、実際にはそう読まれなかったわけで、それは言及された記事がきちんと書かれていないからで、つまり、僕の責任です。
あと、自発的ということですが、この場合は、「国家」が自発的に殺傷行為の許可をした、ということになると思います。

これで、お二人の疑問というか矛盾を感じられた点への返答になっているのかどうか分かりませんが、僕は、こういう考えです。組織としての「自衛隊」と、個人としての「自衛官」は分けて考えるべきだ、ということです。それも詭弁だと言われる可能性もありますが、僕はそうは思いません。
元の記事の「、『自衛隊は人殺しの練習をしている』という言葉と『自衛官は人殺しだ(人殺しも同然だ)』という言葉の間には大きな隔たりがある」という文章には、そういうニュアンスを込めたつもりでしたが、そのようには読まれていないようなので、その点は僕の文章がまずかったからなのだろうな、とは思います。(その反省を踏まえ、これを書いています。)
それから、Josefさんの「今件のような事柄についての言明が政治的であるのはほとんど必然のことであって、単なる事実として語りうると考えるのは幻想か欺瞞か、いずれにしても誤りだと思います。」という指摘に対しては、受け入れなければいけない批判であると思いました。そこで↓の記事中において、単なる事実であるとするのではなく、「僕はそのように考えている」という個人的な意見(政治的な意図を含むと解釈されても構いません)として、言い直すことにしました。

また、aozora21さんの別の記事に付けた僕のコメントも引用しておきます。↓

あと、「防衛に対する正当性」については、別の論点なのではないかと考えます。防衛そのものの正当性を疑ったり、ないがしろにする気はありません。それが実際にどのように運用されるのかが問題なんだとは思います。
「防衛」の中にも「殺傷行為」は含まれ得ますが、そもそも「防衛」とはどこまでが防衛なのか、という問題もあります。正当な防衛なのか、過剰な防衛なのか、あるいは防衛を装った攻撃なのか、それらは常に一定のものでもありませんし、時代によって解釈も変わりえますし、それこそ国家によって恣意的に判断されてしまうこともありえます。
後から考えると、あれは防衛ないし自衛のための行為ではなく、侵略行為であったとされるケースも多々あります。というか、戦争はたいてい「自衛のため」に始まります。だから、「防衛」とか「自衛」とか言うときに、その理念としての正当性は認めますが、実際の行使や運用には「僕は」懐疑的なのかもしれません。ただし、そうであったとしても、責任は国家にある、ということには違いがありません。
とはいえ、「防衛に対する正当性が捨象されてしまう」のも本意ではありませんので、そこのところは反省しなくてはならないかな、と思います。
それと、もしかしてこの「防衛」が、国家ではなく、実際に戦闘行為をする個々の自衛官にかかることならば、その正当性は疑う余地はありませんね。