「愛情は取引できない」というのは、感情は取引できない、ということ。取引できるのは、「振る舞い」である。

年度の変わり目ということもあって、最近本当に忙しい。ネタはあることはあるんだけど、まとめ切れない状態です。
前回の記事のなんとなく続きを書こうと思っているのですが、そういうわけできちんとした記事にはならないかも。でも、要点だけを大雑把にちょっとだけ書いときます。ま、メモ的な感じで。


前回、僕は「愛情は取引できない」と書きましたが、これは要するに、「感情は取引できない」ということなんですよね。考えてみれば当たり前の話で、内心の自由なんて、わざわざ「自由」なんて言葉を使わなくても、他から規制されたり強制されたりすることなんて、原理的に不可能だと思うわけですよ。たとえ、ファシズムの体制下にあってもね。統制できるのは、情報であり振る舞いであって、感情ではない。感情は無理。
だから、一方では「仕事も友達も恋愛も売春も、人間関係ってのは基本的に取引」であるという考え方もあって、それはその通りなんだよな、とも思うわけですが、そこの人間関係において、取引されているものは感情ではないのだと僕は考えています。
取引できるのは、感情ではなくて、「振る舞い」だと。
僕は、「結婚は契約だ」と書きました。契約を取引と言い換えても、意味はほとんど変わらないと思います。この取引の中身は、結婚の当事者同士が「結婚している者同士らしく振る舞うこと」を約束する、ということ。仕事でも商売でも友達でも恋愛でも親子でも人間関係の全ては、この「契約/取引/約束」に基づいている、と言うことができる。明示的にであれ、暗黙のものであれ。(結婚とかは、本人同士にだけ限定された約束ではなくて、世間的・社会的・法的にそういう約束を交わした当事者であることの宣言でもあるわけですが。それはまた別の話かな。)
なので、その取引なり約束なりが有効な場合は、相手にそれに従って振る舞うように望むことは、別に間違っちゃいない。でも、感情がその振る舞いに伴っているかどうかは、保証の限りではないよ、と。
もちろん、伴ってくれていた方が嬉しいですよ。しかし、強制はできない。絶対できない。
んで、人間の感情というやつは、自分自身の期待を裏切ることも往々にしてあるわけで、なかでも、愛情というものは、いちばん扱いに困る厄介なものです。それでまぁ、前回の記事になったわけですが。